大内氏(おおうちし)は日本の氏族の一つ。周防国を本拠とする守護大名、戦国大名に成長した一族、周防大内氏が著名である。家紋は「大内花菱」。
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百済の聖明王の第3皇子である琳聖太子の後裔と称する。琳聖太子が日本に渡り、周防国多々良浜に着岸したことから「多々良」と名乗り、後に大内村に居住したことから大内を名字としたとする。しかし琳聖太子の記録は古代には無く、大内氏が琳聖太子後裔を名乗るのは14世紀以降とされるため、この伝説は信憑性に乏しい。代々周防国で周防権介を世襲した在庁官人の出であること以外は不明である。
平安・鎌倉時代
平安時代後期の仁平2年(1152年)に発給された在庁下文に、多々良氏3名が署名している。これが多々良氏の初見であり、この頃すでに在庁官人として大きな勢力を持ち始めたと推定される。平安時代末期の当主多々良盛房は周防で最有力の実力者となり、周防権介に任じられた。その後盛房は大内介と名乗り、以降歴代の当主もこれを世襲した。
鎌倉時代になると、大内一族は周防の国衙在庁を完全に支配下に置き、実質的な周防の支配者となった。そして鎌倉幕府御家人として、六波羅探題評定衆に任命されている。
南北朝時代
南北朝時代に入ると家督争いが起こり、当主・大内弘幸と叔父の大内長弘が抗争した。
大内弘幸の子・大内弘世は、長門国守護の厚東氏と戦い、正平13年(1358年)にその拠点霜降城を攻略して厚東氏を九州に逐った。これにより大内氏の勢力は周防と長門の2カ国に拡大した。弘世は本拠地を山口(山口県)に移し、正平18年(1363年)に幕府に帰服した。
大内弘世の跡を継いだ大内義弘は、今川貞世(了俊)の九州制圧に従軍し、南朝との南北朝合一でも仲介を務め、明徳2年(1391年)には山名氏の反乱である明徳の乱でも活躍した。結果、和泉・紀伊・周防・長門・豊前・石見の6カ国を領する守護大名となり、李氏朝鮮とも独自の貿易を行うなどして大内氏の最盛期を築き上げた。しかし義弘の勢力を危険視した第3代将軍・足利義満の挑発に乗った義弘は、鎌倉公方の足利満兼と共謀して、応永6年(1399年)に堺で挙兵するも敗死した(応永の乱)。義弘の死後、再び家督を巡っての抗争が起こり、大内家の勢力は一時的に衰退した。しかし周防・長門の守護職は義弘の弟である大内弘茂に安堵された。
室町・戦国時代
大内盛見は、義弘時代の栄華を取り戻すため、北九州方面に進出した。幕府の信任を得たものの、少弐氏・大友氏との戦いに敗れ、永享3年(1431年)に大内盛見は敗死する。しかし、後継の大内持世は盛見に匹敵する人物であり、足利義教の信任を受け少弐氏・大友氏を征伐するなど、大内氏の北九州における優位を確立した。
大内持世は嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱に巻き込まれ非業の死を遂げるが、養子の大内教弘が勢力を引き継いだ。大内教弘の子・大内政弘は、応仁元年(1467年)から始まる応仁の乱で西軍の山名宗全に属して勇名を馳せ、乱の終結後は、九州での復権を目論んで挙兵した少弐氏・大友氏を再び屈服させた。それだけに留まらず室町幕府にも影響力を及ぼす守護大名としての地位を保持し続けた。
大内政弘の後を継いだ大内義興は、少弐氏を一時滅亡に追いやるなど北九州・中国地方の覇権を確立し、その勢力基盤を確固たるものとした。そして京都を追われた放浪将軍・足利義稙を保護した。永正5年(1508年)に細川高国と協力し、足利義稙を擁して中国・九州勢を率いて上洛を果たした。上洛後は管領代として、室町幕政を執行し、表面上は一大勢力を築き上げた。しかし長期の在京は、大内氏にとっても、その傘下の国人や豪族にとっても大きな負担となり、先に帰国した安芸武田氏の武田元繁や出雲国の尼子経久らが大内領を侵略し、足元を脅かす存在となった。その対応に苦慮した義興は京都を引き払い帰国して、尼子氏や安芸武田氏と戦った。
享禄元年(1528年)、大内義興が死去すると、嫡子の大内義隆が家督を継いだ。この時代には周防をはじめ、長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前を領するなど、名実共に西国随一の戦国大名となり、大内家は全盛期を迎えた。さらには細川氏とも争って明との交易を独占し、さらに義隆が学問・芸術に熱心で、キリスト教布教を許し、公家や宣教師を積極的に保護したことから、大内領内には独特の山口文化(大内文化)が生まれ、文化的にも全盛期を迎えた。
衰退
大内義隆は陶興房や内藤興盛等の優秀な家臣に補佐されて、出雲の尼子経久・尼子晴久、筑前の少弐資元・少弐冬尚らと戦う一方、豊後の大友義鑑や安芸の毛利元就などとは何度か戦うも、最終的に融和策を講じた。また内紛の起きていた厳島神主家の家督争いにも介入している。天文5年(1536年)には少弐氏を再び滅亡に追いやり、天文9年(1540年)から天文10年(1541年)には吉田郡山城の戦いで尼子氏を撃破したが、同年の出雲遠征に敗北し、養子の大内晴持を失っている。この遠征の失敗により義隆は政務を放棄し、文芸や遊興に耽るようになる。さらに以前から燻っていた陶隆房ら武断派と相良武任を筆頭とする文治派の対立が激しくなり、大内氏の勢力にも陰りが見え始める。天文20年(1551年)に、大内義隆は武断派の重臣の陶隆房の謀反に遭って、大内義隆は自害する(大寧寺の変)。これにより大内氏は急速に衰退し始めた。なお、これによって実質的に大内家は滅亡したとする見解も有力である。
滅亡
大内義隆の死後、陶隆房は以前義隆の猶子であった大友氏出身の大友晴英を当主として擁立、その偏諱を受けて晴賢と改名した。勿論、陶晴賢が実権を掌握し、この大内義長(晴英より改名)を傀儡として頂点に抱くという形で大内氏は存続した。この晴賢の強引な手法に不満を持つ者も少なくなく、大内義隆の姉婿であった吉見正頼が石見国三本松で反旗を翻す。その反乱の鎮圧の最中に安芸国の最大勢力であった毛利元就も反旗を翻して、安芸国内の陶方の諸城を攻略した。弘治元年(1555年)、安芸国宮島で陶晴賢は毛利元就の奇襲攻撃の前に自害して果てた(厳島の戦い)。
家中を牛耳っていた陶晴賢の死により、大内家内部は最早統制の効かない状況となった。弘治2年(1556年)毛利元就は陶晴賢亡き後の大内領への侵攻を開始した。それにも関わらず杉氏や陶氏、内藤氏が山口周辺で内紛により衝突。親族の吉見氏も毛利氏へと従属。まともな戦闘能力を失った大内義長は内藤隆世の守る長門国且山城に逃亡。弘治3年(1557年)、大内義長は自害。戦国大名としての大内氏はこの時点で滅亡してしまった(防長経略)。
永禄12年(1569年)、大内氏の生き残りである大内輝弘は大友宗麟の支援を受け、周防山口に侵攻した。宗麟にとって輝弘は所詮毛利氏の後方撹乱用の捨て駒に過ぎず、一時は山口の一部占拠に成功するが、北九州より転進してきた毛利軍の逆襲に遭い、逃亡の後、自害した。
江戸時代
江戸時代牛久藩主であった山口氏は、大内氏分家であり大内義弘の次男・大内持盛の系統である。明治維新まで譜代大名として存続した。
歴代当主
多々良氏
多々良正恒
多々良藤根
多々良宗範
多々良茂村
多々良保盛
多々良弘真
多々良貞長
多々良貞成
大内氏
大内盛房
大内弘盛
大内満盛
大内弘成
大内弘貞
大内弘家
大内重弘
大内弘幸
大内長弘
大内弘世
鷲頭弘直
大内義弘
大内弘茂
大内盛見
大内持世
大内持盛
大内教弘
大内政弘
大内教幸
大内義興
大内隆弘
大内義隆
大内晴持
大内義尊
大内義長(大友晴英)
大内輝弘
系図
凡例 太線は実子、細線は養子。 *は同一人物
大内盛房
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弘盛
┃
満盛
┃
弘貞
┃
弘家
┣━━━┓
重弘 長弘
┣━━━┓
弘幸 間田氏
┃
弘世
┏━━━━━━━╋━━━┓
盛見 義弘 弘茂
┣━━━┓ ┣━━━┓
教弘 教幸 持世 持盛
┃ (山口氏)
政弘
┣━━━┓
義興 隆弘
┏━━━━━━━┫ ┃
一条房冬側室 義隆 輝弘
┃ ┌──────╋━━━┳━━━┳━━━┓
*晴持 *晴持 義尊 弘盛 義教 義長
大内氏家臣団(戦国期)
周防長門
右田氏・陶氏
陶弘房
陶弘護
陶武護
陶興房
右田弘詮(陶弘詮)
陶晴賢(陶隆房)
陶長房
内藤氏
内藤弘矩
内藤興盛
内藤隆時
内藤隆春
内藤隆世
杉氏
杉興連
杉重矩
杉重輔
杉隆相
弘中氏
弘中武長
弘中興兼
弘中隆兼
弘中隆助
江良氏
江良房栄
飯田氏
飯田興秀
飯田長秀
末武氏
石見
吉見氏
吉見信頼
吉見頼興
吉見正頼
吉見広頼
益田氏
益田兼堯
益田藤兼
問田氏
問田弘胤
問田興之
問田隆盛
その他
義隆時代
冷泉隆豊
相良武任
天野隆良
平賀隆保
大庭賢兼
関連項目
牛久藩
大友氏
山口市
百済・聖明王