2009年07月01日

農民でありながら雇用主に雇われて

民工(みんこう、ピンイン: míngōng、農民工の略称)は中華人民共和国において、農民でありながら雇用主に雇われて働く肉体労働者の呼称。特に貧困地帯である内陸部の出身者が沿岸部を中心とする都市へと流入し、単純労働者として軽工業に従事した場合を想定する。中国共産党の特有な戸籍制度のために、彼らは2005年までにほとんど労働組合のようなものを持たず、権益の保障がほぼなく、都市経済の発展によってもたらされる社会福祉の恩恵を受けることもできなく、都市における被雇用者の中で最低の労働条件、最低の労働環境、最低の収入を得るグループを成している。それと同時に、中国の経済発展を支える産業労働者における最大のグループであり、2005年の時点で1.5億人の民工がいるものと推測される。「工」は中国語「工人」ピンイン: gōngrén、労働者)の略。
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1978年に中華人民共和国は鄧小平が主導した「改革開放政策」の一環として、市場経済の導入を決定。1979年、深圳、珠海、汕頭(スワトウ)、厦門(アモイ)に経済特区をもうけた。また海外との貿易に有利な沿岸部の開発を推し進めた。その結果、これらの地域の経済力は飛躍的に伸び工業化が進行した。外国資本も呼び込んでの急速な開発であったため、労働集約産業においては人手不足が顕在化するとともに、沿岸部の都市とその他内陸部の農村との経済格差が生じることになった。

中華人民共和国では元来戸籍に「農業戸籍」と「非農業戸籍」の二種を設け、人口移動を厳しく制限していたため、配給制度に依拠し、就職先としても国営企業しか存在していなかった改革開放前には大きな人口移動は起こらなかったが、経済の自由化によって農民にとっての戸籍の重要性が低下すると、内陸部の人々が沿岸部に職を求めて移動するようになった。彼等は都市部の単純労働者として中国の経済発展に寄与することになる。このような移住者を「民工」と呼ぶようになり、彼等の移動を「民工潮」と呼ぶようになった。80年代後半以降、移動の人口が都市部での雇用需要を上回り、都市部に出たものの仕事に就けない者も現れた。これらを「盲流」(もうりゅう、ピンイン: mángliú)という。

2009年06月13日

NPがPと同じかどうかという疑問

NPがPと同じかどうかという疑問(換言すれば、非決定的な多項式時間で解くことのできる問題は決定的な多項式時間でも解くことができるか)は、理論計算機科学における最重要問題の1つであり、その解決が様々な意味を持っている[2]。同じであった場合に都合が悪い影響として、暗号理論の多くがNPの困難さに依存しているため、Pと同じであることが判明すると使い物にならなくなるのである。しかし、よい影響も多々あり、様々な重要な問題に効率的な解法があることが明らかとなることが重要である。例えば、オペレーションズリサーチにおける整数計画問題、物流合理化、生物学におけるタンパク質構造予測、純粋数学の定理を計算機で効率的に形式的に証明する可能性などがある[3][4]。クレイ数学研究所は2000年に、この問題を最初に解いた人に100万ドルを支払うと発表した[5]。
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この問題を考えるにあたって重要となるのは、NP完全の概念である。NP完全な問題はNPの中では最もPから遠い問題ということになる。P = NPが証明されていないため、ある問題をNP完全と判明している問題に還元できるということは、その問題の多項式時間の解法が未知であることを示している。逆に、すべての NP問題はNP完全問題に還元できるため、NP完全問題の多項式時間の解法を発見すれば、P = NPが証明される[2]。(一方、例えP = NPが成立しても、NP困難な問題は多項式時間で解けるとは限らない。理由はNP困難のページを参照のこと)

NPにおける不完全問題 [編集]
上の問題に関連して、NPクラスに属する問題でPクラスには属しないがNP完全でもない問題は存在するか、という問題もある。つまり、非決定的な多項式時間の解法はあるが、多項式時間に還元できない問題ということである。そのような問題でNP完全かどうかが不明な問題として、グラフ同型問題がある。P ≠ NPであることが示されれば、そのような問題が存在することが確定する[6]。


NP = co-NP [編集]
co-NPクラスはNP問題の補問題の集合である(すなわち、「はい」と「いいえ」が逆転している問題)。両者は等しくないと考えられているが証明されていない。2つの複雑性クラスが等しくないことが判明すると、NP完全問題は co-NP には含まれず、co-NP完全問題は NP には含まれないことが明らかになる

2009年06月08日

ラージャ・ヨーガ (Raja yoga)

「ラージャ」は「王の」という意味であり、神を悟るための本格的なヨーガといえる。「マハー(偉大な)・ヨーガ」とも呼ばれる。根本教典はパタンジャリの『ヨーガ・スートラ』(紀元後2-4世紀)。第2章にはラージャ・ヨーガの段階について記述されており{1.ヤマ(禁戒)2.ニヤマ(勧戒)3.アーサナ(座法)4.プラーナーヤーマ(調気)5.プラティヤーハーラ(制感)6.ダーラナー(凝念)7.ディヤーナ(静慮)8.サマーディ(三昧)}これら8つの段階からなることから、ラージャ・ヨーガをアシュタンガ(アシュ:8つ アンガ:枝、部門)・ヨーガとも言う。

今日アシュタンガ・ヨーガ=アーサナと受け取られているが、誤りである。
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日常生活を修行の場ととらえ、善行に励みカルマの浄化を図るヨーガ。見返りを要求しない無私の奉仕精神をもって行う。カルマ・ヨーガの教典は『バガヴァッド・ギーター』。

神への純粋な信愛を培い、(グルがいる場合)グルを神の化身とみなし、全てを神の愛と見て生きるヨーガ。古代に実在し、その後神として崇められたクリシュナが開祖。バガヴァッド・ギーターは、バクティ・ヨーガやカルマ・ヨーガの本質を謳っている。また、近代の大覚者ラーマクリシュナ・パラマハンサは、現代においてはこのバクティ・ヨーガこそ最も必要であると説いた。このヨーガを主軸に据えるグルの団体において、弟子・信者はグルの命令通りに動き絶対帰依することになるが、今なお存命中の大覚者であるサティヤ・サイ・ババやシュリ・チンモイは、弟子の病気などのカルマを引き受けることも行っているという。新興宗教の中でも程度の違いこそあれこのヨーガを取り入れている団体は多いが、間違ったグルを師と仰ぐと一生を棒に振ることにもなりかねないため、事前に十分調査をすることが重要とされる。このヨーガの行者をバクタ (bhakta) という。

高度な論理的熟考分析により、真我を悟るヨーガ。クリシュナムルティが有名。20世紀を代表する聖者の一人であるシュリ・ラマナ・マハリシ(ラマナ・マハルシ)は、このヨーガで大悟したとされているが、一般的に難易度の高いヨーガと云わざるを得ない。だが、巧く実践可能であるならば最も高度なヨーガとなりうるとの意見もある。このヨーガの行者はギャーニ(ジュニャーニ、jnani) と呼ばれる。

マントラ(密教でいう真言)を使うヨーガ。ガヤトリー・マントラ、ハレークリシュナ・マントラ、インヴォケーション・マントラなどが用いられている。

2009年04月25日

フィクションにおける地球空洞説

『ニコラス・クリミウスの地下世界の旅』

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1741年、デンマークのホルベリ(ホルベルク、Ludvig Holberg)が発表した風刺的作品。主人公の学士ニコラスは洞窟探検中に穴に落ち、空洞な地球の内部へ。地球内面の国や空洞内を回る惑星で奇妙な社会を見聞し、また地底人の政治闘争に巻き込まれる。
『シムゾニア・ある発見航海』
1823年、アダム・シボーン船長(Captain Adam Seaborn、アメリカ、匿名作家のペンネーム)は、『シムゾニア・ある発見航海』(Symzonia: A Voyage of Discovery)という本を発表。その中で地球内部には2個の太陽と2個の月があると描写された。これは明らかにシムズの説をものにしたもので、著者の正体はシムズ本人であるとするものも多かった
『ハンス・プファールの無類の冒険』
1830年代、エドガー・アラン・ポーは、シムズの説をもとにして短編小説『ハンス・プファールの無類の冒険』(The Unparalleled Adventure of One Hans Pfaall)を発表。超高空の気球から「北極点の穴」が観察されるシーンを描いた。また1833年には『壜の中の手記』、1838年には『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』を発表した。いずれの海洋奇談でも、結末で地球空洞説が強く暗示される。
『地底探検』
1864年、ジュール・ヴェルヌは、小説『地底探検』(A Journey to the Center of the Earth.)を発表した。主人公たちはアイスランドの死火山の噴火口から地底世界に侵入し、恐竜や原始的な生活を送る人類と遭遇する。
『スモーキー・ゴッド』
1908年、アメリカの作家ウィリス・ジョージ・エマーソンは、ノルウェー人の漁師オラフ・ヤンセンの地球内部への進入体験記として小説『スモーキー・ゴッド』(The Smoky God)を出版。これはヤンセン父子が暴風雨に巻き込まれて北へ北へと漂流し、やがて動かない小さな赤い太陽に照らされた場所に出る。そこで彼らは身長4mの優しい巨人たちに助けられ、地下世界で2年半を過ごす。やがて父子は地上に戻ろうとするが、その航海の途中で氷山に激突して難破。父親は死亡し、なんとか助けられたオラフも狂人として28年間を精神病院で過ごすこととなる。95歳のオラフは、だれにも信じてもらえなかった地下世界の話を友人だったエマーソンに伝えた後、高齢のため死亡した、という話である。一部の人々は、この本をノンフィクションだと信じた。
地底世界ペルシダーシリーズ
エドガー・ライス・バローズは、もっともらしさよりもエンタテイメント性に重点を置いて、地底世界ペルシダーの冒険譚を出版した。この興味深い地下世界ペルシダーには彼の創造した別のキャラクターであるターザンが訪問したこともある。(シリーズ第4作『地底世界のターザン』)
外側における海がペルシダーの大陸に対応するため、実質的にはペルシダーは「外側の」大陸よりも広い陸地面積を持っているとされた。原始的な人類と、より大きくより危険な生き物たちが「外側」から流入し、ペルシダーで繁栄している。さらに、バローズはマハール族(Mahars、超能力を有する知的で残虐な爬虫人類。翼手竜に似ており、人類を食用とする。)のような存在も付け加えた。
ペルシダーでは空洞中央に決して沈まない小型の太陽があり、常に中天に太陽が存在するため、地下の住民たちには時間の概念がないとされた。
『収容所惑星』
ロシアのSF小説『収容所惑星』(The Inhabited Isle、ストルガツキー兄弟)では、異常に強い大気の屈折のために大地は凹面に見え、密度の高い大気のせいで星空が存在せず、住民たちは自分たちが凹面の惑星に住んでいると考えている惑星に不時着した男の苦闘が描かれる。

2009年04月07日

ケイジャン (音楽)

ケイジャン (音楽)(Cajun Music)はルイジアナ州に定住したフランス系移民、ケイジャンによって始められたダンス音楽。主にアコーディオンとフィドル(バイオリン)を入れたバンドで演奏され、歌詞はフランス語で歌われることが多い。

代表的なアーティストとしてはボーソレイユ、サヴォア・ファミリー、バルファ・ブラザーズ、スティーヴ・ライリー&ザ・マムー・プレイボーイズなどが挙げられる。一方同じルイジアナには、主に黒人達が演奏する、ザディコという音楽も存在し、これもケイジャン同様アコーディオンがメインの楽器となっているが、ザディコには通常フィドルは入らず、その代わりにパーカッションの役目を果たすラブボード(洗濯板が楽器に変化したもの)が使われる。ケイジャン・ミュージックとザディコはお互い影響を受け合いながら歩んできており、今日ではウェイン・トゥープスのように両者のクロスオーバー的なサウンドを狙うアーティストも存在する。

代表的なアーティスト [編集]

アコーディオン [編集]
ネーザン・アブシール (Nathan Abshire)
レイ・アブシール (Ray Abshire)
ザッカリー・リシャール (Zachary Richard)
マーク・サヴォア (Marc Savoy)
ブルース・ダグレポン (Bruce Daigrepont)
ジョー・エル・ソニエ (Jo-El Sonnier)
ベルトン・リシャール (Belton Richard)
スティーヴ・ライリー (Steve Riley)
ダーク・パウエル (Dirk Powell)
ウェイン・トゥープス (Wayne Toups)
エディー・ルジューン (Eddie LeJeune)
アイリー・ルジューン (Iry LeJeune)

フィドル [編集]
ダグ・カーショウ (Doug Kershaw)
デューイ・バルファ (Dewey Balfa)
マイケル・ドゥーセ (Michael Doucet)
アマンダ・ショウ (Amanda Shaw)
デニス・マギー (Dennis McGee)

ギター [編集]
アン・サヴォア (Ann Savoy)
D.L.メナール (D.L. Menard)
クリスティーン・バルファ (Christine Balfa)

バンド [編集]
パイン・リーフ・ボーイズ (The Pine Leaf Boys)
ボーソレイユ (BeauSoleil)
バルファ・トゥジュール (Balfa Toujours)
バルファ・ブラザーズ (The Balfa Brothers)
レッド・スティック・ランブラーズ (Red Stick Ramblers)
ハックベリー・ランブラーズ (Hackberry Ramblers)
フォーフォーレ (La Bande Feufollet)
マグノリア・シスターズ (The Magnolia Sisters)
サヴォア・ドゥーセ・ケイジャン・バンド (Savoy-Doucet Cajun Band)

オーナー スキャン マカダミ プレリ トリニダード ジャタン ミヤコサ コビット ラトビア ギナー サイプ シャッフル ネイル ガイア コナ最適 ネバダ ナビミュ 猫物語 たてにしき オート セネガ フローズン スーパ 秋のメルヘン ゼルオー ハルツーム はっく ハードル イタリック サクセス シャーク シート ハイオ キッチュ ロール シアーズ アカマ ジルバ サーズ リバー テーマ ディアム クッパ ねこふん ノーモア フェーズ プレイ さかい ファイ ビタミン

2009年03月23日

1965年(昭和40年)?1974年(昭和49年)

1965年(昭和40年)10月1日 - 全国の主要152駅に「みどりの窓口」を設置。
1966年(昭和41年)4月 - 国鉄の全線でATS(自動列車停止装置)の設置が完了。
1967年(昭和42年) - 阪急千里線北千里駅で、日本初の磁気式自動改札機導入。
関西の私鉄駅では1970年代に広く普及したが、関東の場合は連絡運輸を広く行っていることから、その複雑な情報のために未対応の乗車券を自動改札機に入れてしまって詰まらせるといった事態が多発し、1990年代まで普及に至らなかった。
1969年(昭和44年)5月10日 - 国鉄において等級制を廃止。
それまでは一等運賃・料金と二等運賃・料金が別々に定められていたが、これ以降一等車をグリーン車、二等車を普通車とし、グリーン車に乗るには普通車の乗車券・料金券に加えて別にグリーン券を購入する制度とした。

1975年(昭和50年)?1988年(昭和63年) [編集]
1976年(昭和51年)3月 - 国鉄における実用の蒸気機関車が全廃された。
1976年(昭和51年)7月9日 - 大井川鉄道大井川本線で観光列車として蒸気機関車の運転を再開。
国鉄では1979年(昭和54年)に山口線「やまぐち」号で復活。
1977年(昭和52年) - 日本でマグレブ式リニアモーターカーの実験が始まる。
宮崎県日向市に浮上式鉄道実験センターが設置され、リニア実験線で有人走行も後には行われるようになった。1997年(平成9年)には山梨県大月市・都留市へ試験場を移転している。
1981年(昭和56年)2月5日 - 日本初の実用的新交通システム (AGT) として、神戸新交通ポートアイランド線開通。
自動列車運転装置 (ATO) を採用し、実用鉄道で日本初の無人運転も行った。
1982年(昭和57年) - 鉄原コークス(室蘭市)で使われていた蒸気機関車が引退。
日本国内から実用の蒸気機関車が全廃された。
台風10号の影響により富士川が増水し、東海道本線の富士川橋梁(下り線)2スパンが橋脚ごと流失。75日後に復旧するまでの間、流失を免れた上り線を交互に使用する緊急措置が取られた。
1986年(昭和61年) - 国鉄が郵便輸送および荷物輸送を廃止。
郵便輸送は10月1日で、荷物輸送は11月1日で廃止(一部を除く)。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化によりJRグループ各社発足。
これにより、日本において国有鉄道と私有鉄道の区別は(一部法規制などによって残るものの)消滅することになった。「地方鉄道法」が「鉄道事業法」に変えられたことなどがその例といえる。
1988年(昭和63年) - 青函トンネルおよび瀬戸大橋が供用開始。
青函トンネルは3月13日、瀬戸大橋は4月10日より。日本四島が線路でつながったことから「一本列島」と呼ばれた。
パンチ ナビスパ キログラム ユーロ 風花 スマート ラビット リュクス リバー ナビピ スタチオ パラダイス 朝の山道 タイム すいば レバー クニカル ハイレ アーマー マレーシア まーこ ビフテキ 生かす マラケ 自然薯 ボック プラチナ ライフプ オマーン ドーハ 道しるべ オーガ うみわに ミーズ あかちゃ トロンボ 逢坂の関 スポッ シティ ミックス ドマーク ジニーメイ スプレッド はっさく フリート フォトン ブレード シアトー タイム ハウス

1989年(平成元年)? [編集]
1990年(平成2年)3月20日 - 日本初のリニアモーターカー実用路線(鉄輪式)として、大阪市営地下鉄鶴見緑地線(現・長堀鶴見緑地線)開業。
トンネル断面を小さく出来ることからミニ地下鉄と呼ばれ、以後何本か同類の路線が開業した。
1992年(平成4年)7月1日 - 新在直行方式による山形新幹線開業。
2001年(平成13年)3月23日 - 実用では日本初のガイドウェイバスとして、名古屋ガイドウェイバス志段味線(愛称「ゆとりーとライン」)が名古屋市で開業。
2003年(平成15年)8月10日 - 沖縄都市モノレール開業。第二次世界大戦で沖縄県の鉄道が破壊されて以来、日本の全ての都道府県に鉄道が敷設されたことになる。
2004年(平成16年)3月13日 - JR九州が鹿児島本線の八代駅〜川内駅間を九州新幹線の開業に伴い経営分離し、肥薩おれんじ鉄道が継承して開業。
2005年(平成17年)3月6日 - 実用では日本初の磁気浮上式リニアモーターカーとして、愛知高速交通東部丘陵線(愛称「リニモ」)が開業。

2009年03月08日

帝国陸軍の将校(士官)

大日本帝国陸軍では、陸軍将校の階級となるのは、「大将?中将?少将?大佐?中佐?少佐?大尉?中尉?少尉」である(陸軍軍人に準じる扱いを受けた朝鮮軍人の将校は、日韓併合の1910年から1920年まで旧韓国軍時代のままの階級を用いた。)。

当初は、兵科分類は階級名称においても反映され、佐尉官では「陸軍○○大尉」(歩兵・騎兵・砲兵・工兵・憲兵など)と区別された。後に将校相当官が各部将校に改められるに伴い、衛生部・経理部といった各部等でも同様の階級名が用いられるようになる。更に昭和15年には兵科が廃止され、憲兵科と各部将校を除きいずれの兵科も階級の前に称していた兵科名を廃し単に「陸軍大佐」のように称した。

将校になるには中学校や陸軍幼年学校を卒業して陸軍士官学校で学ぶのが一般的であった。士官学校卒業後、4ヶ月間の見習士官を経て少尉に任官した。ただし、後に士官学校本科が陸軍士官学校と航空士官学校に分かれると、航空士官学校は6ヶ月間教育期間が長かったため、見習士官はなかった。他に兵や下士官から選抜された少尉候補者や甲種幹部候補生として予備士官学校を卒業して将校になる者もいた。太平洋戦争末期の歩兵部隊における幹部候補生出身の将校の比重は、師団の急増とともに高まっていった。

帝国海軍の士官
基本的な階級
大日本帝国海軍では、「士官」とは戦闘要員を主体とする兵科士官(「将校」)と戦闘要員を支援する技術士官(「将校相当官」)に大別される。兵科士官は海軍兵学校、海軍機関学校で3年間教育を受けたあと、練習艦隊の訓練を経て、各種術科学校(砲術、水雷、通信、航海、潜水、飛行)で特性に応じた教育を受け、正式な兵科士官となる。技術科士官は造船科、造機科(艦船のエンジン)、造兵科(兵器)、水路科の4科の士官を総括していう。大学令による大学(主として東京帝国大学)の工学部、理学部在学中の学生から試験で採用、海軍学生または海軍委託学生として毎月一定の手当てを支給。卒業と同時に造船中尉、造兵中尉に任官する。1942年(昭和17年)11月、前述の4科は技術科に一本化、官職名は海軍技術中尉になった。この他、主計科・軍医科・薬剤科・歯科医科・法務科・看護科・軍楽科も「将校」でなく「将校相当官」である(時期により異なる)。兵科士官のみが「将校」とし、その他の科に属する士官は「将校相当官」とし、指揮権はなく、昇進も中将どまりである。なお、明治37年以降は、海軍予備員たる予備士官も置かれた。これらは海軍の兵科・機関科の関係の変遷や階級呼称の変遷に伴い、それに準じて制度が改正された。

海軍士官の階級?兵科将校(兵科将校という表現は厳密には1920年-1942年のみ用いられている。)の場合? 大将?中将?少将?大佐?中佐?少佐?大尉?中尉?少尉?少尉候補生

旧海軍においては旧陸軍と異なり、大佐を“だいさ”、大尉を“だいい”と呼んでいた。ただし、大将は陸軍と同じ“たいしょう”と呼んでいた。大将のみ“たいしょう”と呼称する理由は、司令官たる大佐(少将ポストにいる大佐)については少将旗ではなく代将旗(だいしょうき)を掲揚するので、これと大将とを混同しないようにするためである。

なお、近代海軍の基本となったイギリス海軍には少佐・少尉の階級が無く、大佐(Captain)・中佐(Commander)・大尉(Lieutenant)・中尉(Sublieutenant)の4階級制度が基本となっており、階級章の袖章の線も大佐が4条線となり以下1条ずつ減ぜられることとなっていた(その後少佐(Lieutenant Commander)の階級は作られたが、少尉に当たる階級は現在に至るも存在しない)。それに倣い、日本海軍でも、1886年(明治19年)年7月12日には海軍中佐(奏任官2等)・海軍中尉(奏任官5等)が、それぞれ海軍大佐(奏任官1等及び2等)・海軍大尉(奏任官4等及び5等)に統合された(用語の問題で少佐、少尉でなく中佐、中尉が省略された)が、1897年(明治30年)年9月16日に再び分離して置かれた。

機関科
明治初期は、直接戦闘に従事する高等武官(海軍兵学校出身者が中心)のみを将校として、それ以外(機関官を含む)は乗組文官であった。1872年(明治5年)に機関官などが武官に転換して士官となる。明治39年1月26日勅令第9号により、機関官の階級呼称を兵科のそれにならう(機関総監・機関大監・機関中監・機関少監・大機関士・中機関士・少機関士を、機関中将・機関少将・機関大佐・機関中佐・機関少佐・機関大尉・機関中尉・機関少尉と改める。)。

1915年(大正4年)大正4年12月2日勅令第216号により、機関官が機関将校(将校とは異なる区分)と改められる(この時点では将校・機関将校の2種が置かれる)。1920年(大正9年)に大正8年9月22日勅令第427号により「機関将校」及び「予備機関将校」が、「将校」に統合されて、「将校」(機関科)及び「予備将校」(機関科)となる(機関科将校)。1924年(大正13年)に少将以上の兵科・機関科の区別を廃止する。1942年(昭和17年)に将校の兵科・機関科の区別を廃止する。

長らく、戦闘に直接従事する高等武官と、機関科に属する士官とを区別していたのは、有事の際に軍令承行令に基き、指揮権継承の優先権を、戦闘指揮の教育を受けている海軍兵学校出身者に与えるためであった。

特務士官
制度の変遷
明治30年9月16日勅令第310号の海軍武官官階表では、特務士官の分類はなく、士官(後世の尉官の意味。)として、下士出身者が任じられる少尉相当の海軍兵曹長・海軍軍楽長・海軍船匠長・海軍機関兵曹長・海軍看護長・海軍筆記長が置かれている。

大正4年12月2日勅令第216号別表の海軍武官官階表では、特務士官として海軍兵曹長・海軍機関兵曹長・海軍軍楽長・海軍船匠長・海軍看護長・海軍筆記長が置かれる(階級の種類としては明治30年9月16日勅令第310号と同じであるが海軍機関兵曹長の並びの順位が上昇している)。

大正9年1月15日勅令第10号により、海軍兵曹長・海軍機関兵曹長・海軍軍楽長・海軍船匠長・海軍看護長・海軍筆記長・海軍予備兵曹長・海軍予備機関兵曹長が、海軍特務少尉・海軍機関特務少尉・海軍軍楽特務少尉・海軍船匠特務少尉・海軍看護特務少尉・海軍主計特務少尉・海軍予備特務少尉・海軍予備機関特務少尉と改称される。

昭和17年に特務士官の階級名から「特務」との呼称が削除されるが、海軍廃止まで特務士官制度は存続し、必要に応じて「特務士官たる?尉」と区別されていた。
セッサカー リネーム ソテー トラック きょうお チップ ゴブラン サンファ デリバリー プレー スパンキ ラシン カーレース シリコンウ リテーラー フォワ フラン アデニ ジャケット コスミド クロロ いいだこ ニポポ あしべつ ファゴット トニア ソックス スンニ ロジカル ほうゆう むろね ヒッピー バックホ リラックス せれべす かばん ライ麦 ツアー わらぐつ チャクラ カード キミと僕 ハーフマラ ももいろ コータロウ スンダ 恋模様 ターボ カゼイン メルシ

特選制度
兵曹長新設後、特選により士官たる中尉・機関中尉に進級できる道が開かれた。明治33年に初めての中尉が誕生している。しかし名誉進級か戦死に伴った昇進であり、中尉として勤務できたものはいなかった。大正9年の大改正までに昇進できたものも約100名程度にとどまっている。大改正以後は特務中尉・大尉の階級が新設されたため、特務士官として上位に進級できるようになったため、大正年間には特選任用されたものはでていない。昭和2年になり主計特務大尉から士官たる主計少佐に昇進したものが現れた。当初は、予備役編入寸前に特進する名誉少佐であったが、昭和12年に至り、現役中に昇進する者がでてきた。海軍消滅までに、戦死者を含め各科約1800名が少佐に昇進している。また、昭和19年に、兵科2名、機関科1名の現役中佐への昇進者がでた。

昭和19年飛行予科練習生出身者(操縦練習生・偵察練習生出身者を含む)に限り特務士官たる大尉から士官たる大尉への任用制度を創設。その後、昭和20年特務士官たる中尉、少尉から士官たる中尉、少尉に任用できるよう制度が拡充された。しかし適応をうけられたのは大尉への任用のみで10名に満たない。

2009年02月19日

ムルタ・アズラエル

ムルタ・アズラエル(Multa Azrail)は、テレビアニメ『機動戦士ガンダムSEED』、それに関連する作品に登場する架空の人物。
ルント シャイ インタン トラム バプ 冬の枝 ハニー はしかみ スタッ ロルプロ トザウルス マリオ ロール ライカ カースト 花月 フェンシ モリブデン マジック おんかま シッキ サンドバ ニング ワラント サウスポー ミール きんしゃ ブランチ プロジ タッグ れんおん シルク チャカレ ヒュンダ くわのじつ ストラ 空を見 シャー リチャ 黄砂 オープン オリンズ ジブチ わどまり あずきいろ パリティ ビーフン コクト ひしがた バカラ

人種:ナチュラル
生年月日:C.E.41年生まれ
没年月日:C.E.71年9月27日
没年齢:30歳
髪の色:ゴールデンブロンド
瞳の色:青
反コーディネイターの政治団体「ブルーコスモス」の盟主。古くから反コーディネイター運動に最大の出資をしてきたアズラエル財閥の御曹司でもある。また、国防産業連合理事の任にあり、デトロイトに本社をおく大手軍需産業の経営者でもある。大西洋連邦政府及び同国軍に対して強い発言力を持ち、現場指揮官に直接「命令」を下すことすらあった。家系の影響に加え、幼少期に同年代のコーディネイターにどうしても敵わず、軽くあしらわれて以来、彼らに対して激しいコンプレックスを持つようになった。

『SEED C.E.73 -STARGAZER-』ではスウェンの回想に登場しており、当時訓練生であったスウェンに関係して彼の教官と対立があったようである。

フリーダム、ジャスティスに核エンジンが搭載されている事を見抜く等、知識や洞察力は優れているのだが、器量は狭く性格も自己中心的。周囲にイヤミと大事を言い、ねじ伏せて自分の思い通りにしようとする。普段は冷静な皮肉屋を気取っているものの、追い詰められると感情が剥き出しになるという精神的な脆さを持つが、ジェネシスの初回発射後など、そういった脆さは見せたが発せられた言葉などは、(地球の危機という点からしても)あながち間違いではない。最もジェネシス破壊を命じながら、後でプラント破壊を優先してしまうという一貫性の無さといった面も見せた。

名前の「アズラエル」は、イスラム教における死を司る天使アズラーイールのこと。

経歴
ASTRAYシリーズに登場するコーディネイターであるロンド姉弟と密接な関係があり、連合への秘密裏な協力の見返りとして、オーブへの不介入の約束、ソキウス(ロボトミー処置済み)や後期GAT-Xシリーズの派生機を提供している。しかしギナ・サハクが第三次ビクトリア攻防戦に参戦していると同時にオーブは連合に侵攻された。

パナマ攻略戦において地球連合軍はマスドライバーを失い、宇宙への橋頭堡確保のため、マスドライバーを持つオーブへの侵攻を提案し、自ら指揮する。オーブへの侵攻とマスドライバーの奪取はオーブ側のマスドライバーを含む軍関連施設およびモルゲンレーテ社の自爆により失敗に終わったが、後期GAT-Xシリーズのレイダー、フォビドゥン、カラミティを実戦投入するという、もう一つの目的は大きな戦果と共に達成された。

その後のアークエンジェル討伐戦では、フリーダム、ジャスティスに核エンジンが搭載されている事を見抜き、捕獲を命令している。

宇宙に上がってからは、かつてアークエンジェルの乗組員であった、ナタル・バジルールが艦長を務めるアークエンジェル級2番艦ドミニオンに乗り込み、民間人でありながら実質的な指揮官の座にあった。

ザフトから解放されたフレイの「戦争を終わらせる鍵を持っている」という言葉に関心を持ち彼女を救助し、ニュートロンジャマーキャンセラーのデータを手に入れ狂喜した。

地球連合軍上層部を説き伏せ、これを利用した核ミサイル搭載モビルアーマー部隊「ピースメーカー」を編成。ザフトの宇宙要塞ボアズを核攻撃で沈めた後、プラントに対しても核攻撃を行おうとする。しかし、最終決戦である第二次ヤキン・ドゥーエ攻防戦において投入された核ミサイルは、キラ・ヤマト達によって全弾撃墜され、また、かねてよりアズラエルの行動に疑問を抱いていたナタルが造反し、フレイをはじめとする全クルーに対し、対峙していたアークエンジェルへの投降を命じる。

これに激昂したアズラエルは自分用の端末でローエングリンを起動し、アークエンジェルに向けて発射するが、身を挺したムウのストライクによって阻止され、ストライクは大破。これによりマリューの怒りと悲しみは高まり、直後にアークエンジェルから放たれたローエングリンの直撃により、アズラエルはナタルと共に命を落とした。その時アズラエルは、ナタルによって艦橋に閉じ込められていたが、ナタルの全身を拳銃で撃ち、自分の解放を強要するという非道さを見せた。

彼の死後、ロード・ジブリールがブルーコスモスの盟主を務めている。ロゴスメンバー、ブルーノ・アズラエルは、彼と同姓であることと、風貌に共通する面があることから、彼の血縁関係であることが推測されるが、関連は劇中いかなるメディアにおいても明らかにされていない。

他作品での出演
第3次スーパーロボット大戦α 終焉の銀河へ
戦闘用の専用ボイスとして獅子王凱が駆るジェネシック・ガオガイガーに対して敵愾心をむき出しにし、ナタルに諌められる。また、ゲーム中断後の小話では頑なに勇気を否定し、ナタルに呆れられる一幕がある(逆に『スーパーロボット大戦J』ではナタルが同じく桑島法子が声優を務める『機動戦艦ナデシコ』のミスマル・ユリカに強い対抗心を見せてアズラエルにツッコミを入れられるパターンとなっている)。このこと等から、ファンからは盟主王などと呼ばれている。
スーパーロボット大戦W
ニュートロンジャマーキャンセラーのデータが本来ならフレイによってもたらされるはずが、プレイヤー部隊に救助されてしまい嘆く一幕を見せている(この時、アズラエルはニュートロンジャマーキャンセラーのデータを「勝利の鍵」と呼ぶ。ちなみにこれも勇者王ガオガイガーのネタである)。また、叢雲劾からプレア、カナード、ソキウス、生体CPUのような存在を生み出す者として狙われており、原作通りナタルを撃とうとしたところを乱入した劾に阻止され、サングラスを外した彼の正体(劾は脱走した連合の戦闘用コーディネイター)を知って怯えあがる一幕がある。結局、劾からも「俺が殺す価値もない」と見逃され、そこに現れた地球連合の艦隊を率いて反撃に転じようとするが、直後にアークエンジェルのローエングリンに撃たれて、劾の警告で乗員が(劾に救助されたナタルを含めて)全員脱出したドミニオンで1人命を落とす。
『ガオガイガー』はこの作品にも参戦しているが、直接対決することはない。
SDガンダム GGENERATION DS
あるルートで彼のやり方に反発したナタル、ジェリド・メサ、マウアー・ファラオ、シーマ・ガラハウに離反され、更にある条件を満たすとオルガ、シャニ、クロトにまで離反されてしてしまうなど、人望のなさが如実に現れる展開となる。さらにルート次第では隠しシナリオにおいてデビルガンダムに搭乗してくる(この際DG細胞に感染しているため情緒不安定な言動に変化している)。

2009年02月03日

大内氏(おおうちし)は日本の氏族の一つ

大内氏(おおうちし)は日本の氏族の一つ。周防国を本拠とする守護大名、戦国大名に成長した一族、周防大内氏が著名である。家紋は「大内花菱」。
マリゴール ユーロシ 法則 プロキオ パティ フェンリル ロボコン プラン とうみ ドロン デザイナー ひかわ ウンギョー クロスバー デリシ 宿儺南瓜 フロアマ バナバ ぶどう ハツユ ァサード パイ セミダブル ミコロン スキャンダル ピザク トライアル ギンリ ビコル カデット ブレーン エイド ヒート フロアス エーエスピ シュリン くわい サイト冬瓜 紀州 レーシ うたしない ベジス ブック ノベル ジャル ワイフ ニュー フリ モラテオ はっとう

百済の聖明王の第3皇子である琳聖太子の後裔と称する。琳聖太子が日本に渡り、周防国多々良浜に着岸したことから「多々良」と名乗り、後に大内村に居住したことから大内を名字としたとする。しかし琳聖太子の記録は古代には無く、大内氏が琳聖太子後裔を名乗るのは14世紀以降とされるため、この伝説は信憑性に乏しい。代々周防国で周防権介を世襲した在庁官人の出であること以外は不明である。

平安・鎌倉時代
平安時代後期の仁平2年(1152年)に発給された在庁下文に、多々良氏3名が署名している。これが多々良氏の初見であり、この頃すでに在庁官人として大きな勢力を持ち始めたと推定される。平安時代末期の当主多々良盛房は周防で最有力の実力者となり、周防権介に任じられた。その後盛房は大内介と名乗り、以降歴代の当主もこれを世襲した。

鎌倉時代になると、大内一族は周防の国衙在庁を完全に支配下に置き、実質的な周防の支配者となった。そして鎌倉幕府御家人として、六波羅探題評定衆に任命されている。

南北朝時代
南北朝時代に入ると家督争いが起こり、当主・大内弘幸と叔父の大内長弘が抗争した。

大内弘幸の子・大内弘世は、長門国守護の厚東氏と戦い、正平13年(1358年)にその拠点霜降城を攻略して厚東氏を九州に逐った。これにより大内氏の勢力は周防と長門の2カ国に拡大した。弘世は本拠地を山口(山口県)に移し、正平18年(1363年)に幕府に帰服した。

大内弘世の跡を継いだ大内義弘は、今川貞世(了俊)の九州制圧に従軍し、南朝との南北朝合一でも仲介を務め、明徳2年(1391年)には山名氏の反乱である明徳の乱でも活躍した。結果、和泉・紀伊・周防・長門・豊前・石見の6カ国を領する守護大名となり、李氏朝鮮とも独自の貿易を行うなどして大内氏の最盛期を築き上げた。しかし義弘の勢力を危険視した第3代将軍・足利義満の挑発に乗った義弘は、鎌倉公方の足利満兼と共謀して、応永6年(1399年)に堺で挙兵するも敗死した(応永の乱)。義弘の死後、再び家督を巡っての抗争が起こり、大内家の勢力は一時的に衰退した。しかし周防・長門の守護職は義弘の弟である大内弘茂に安堵された。

室町・戦国時代
大内盛見は、義弘時代の栄華を取り戻すため、北九州方面に進出した。幕府の信任を得たものの、少弐氏・大友氏との戦いに敗れ、永享3年(1431年)に大内盛見は敗死する。しかし、後継の大内持世は盛見に匹敵する人物であり、足利義教の信任を受け少弐氏・大友氏を征伐するなど、大内氏の北九州における優位を確立した。

大内持世は嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱に巻き込まれ非業の死を遂げるが、養子の大内教弘が勢力を引き継いだ。大内教弘の子・大内政弘は、応仁元年(1467年)から始まる応仁の乱で西軍の山名宗全に属して勇名を馳せ、乱の終結後は、九州での復権を目論んで挙兵した少弐氏・大友氏を再び屈服させた。それだけに留まらず室町幕府にも影響力を及ぼす守護大名としての地位を保持し続けた。

大内政弘の後を継いだ大内義興は、少弐氏を一時滅亡に追いやるなど北九州・中国地方の覇権を確立し、その勢力基盤を確固たるものとした。そして京都を追われた放浪将軍・足利義稙を保護した。永正5年(1508年)に細川高国と協力し、足利義稙を擁して中国・九州勢を率いて上洛を果たした。上洛後は管領代として、室町幕政を執行し、表面上は一大勢力を築き上げた。しかし長期の在京は、大内氏にとっても、その傘下の国人や豪族にとっても大きな負担となり、先に帰国した安芸武田氏の武田元繁や出雲国の尼子経久らが大内領を侵略し、足元を脅かす存在となった。その対応に苦慮した義興は京都を引き払い帰国して、尼子氏や安芸武田氏と戦った。

享禄元年(1528年)、大内義興が死去すると、嫡子の大内義隆が家督を継いだ。この時代には周防をはじめ、長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前を領するなど、名実共に西国随一の戦国大名となり、大内家は全盛期を迎えた。さらには細川氏とも争って明との交易を独占し、さらに義隆が学問・芸術に熱心で、キリスト教布教を許し、公家や宣教師を積極的に保護したことから、大内領内には独特の山口文化(大内文化)が生まれ、文化的にも全盛期を迎えた。

衰退
大内義隆は陶興房や内藤興盛等の優秀な家臣に補佐されて、出雲の尼子経久・尼子晴久、筑前の少弐資元・少弐冬尚らと戦う一方、豊後の大友義鑑や安芸の毛利元就などとは何度か戦うも、最終的に融和策を講じた。また内紛の起きていた厳島神主家の家督争いにも介入している。天文5年(1536年)には少弐氏を再び滅亡に追いやり、天文9年(1540年)から天文10年(1541年)には吉田郡山城の戦いで尼子氏を撃破したが、同年の出雲遠征に敗北し、養子の大内晴持を失っている。この遠征の失敗により義隆は政務を放棄し、文芸や遊興に耽るようになる。さらに以前から燻っていた陶隆房ら武断派と相良武任を筆頭とする文治派の対立が激しくなり、大内氏の勢力にも陰りが見え始める。天文20年(1551年)に、大内義隆は武断派の重臣の陶隆房の謀反に遭って、大内義隆は自害する(大寧寺の変)。これにより大内氏は急速に衰退し始めた。なお、これによって実質的に大内家は滅亡したとする見解も有力である。

滅亡
大内義隆の死後、陶隆房は以前義隆の猶子であった大友氏出身の大友晴英を当主として擁立、その偏諱を受けて晴賢と改名した。勿論、陶晴賢が実権を掌握し、この大内義長(晴英より改名)を傀儡として頂点に抱くという形で大内氏は存続した。この晴賢の強引な手法に不満を持つ者も少なくなく、大内義隆の姉婿であった吉見正頼が石見国三本松で反旗を翻す。その反乱の鎮圧の最中に安芸国の最大勢力であった毛利元就も反旗を翻して、安芸国内の陶方の諸城を攻略した。弘治元年(1555年)、安芸国宮島で陶晴賢は毛利元就の奇襲攻撃の前に自害して果てた(厳島の戦い)。

家中を牛耳っていた陶晴賢の死により、大内家内部は最早統制の効かない状況となった。弘治2年(1556年)毛利元就は陶晴賢亡き後の大内領への侵攻を開始した。それにも関わらず杉氏や陶氏、内藤氏が山口周辺で内紛により衝突。親族の吉見氏も毛利氏へと従属。まともな戦闘能力を失った大内義長は内藤隆世の守る長門国且山城に逃亡。弘治3年(1557年)、大内義長は自害。戦国大名としての大内氏はこの時点で滅亡してしまった(防長経略)。

永禄12年(1569年)、大内氏の生き残りである大内輝弘は大友宗麟の支援を受け、周防山口に侵攻した。宗麟にとって輝弘は所詮毛利氏の後方撹乱用の捨て駒に過ぎず、一時は山口の一部占拠に成功するが、北九州より転進してきた毛利軍の逆襲に遭い、逃亡の後、自害した。

江戸時代
江戸時代牛久藩主であった山口氏は、大内氏分家であり大内義弘の次男・大内持盛の系統である。明治維新まで譜代大名として存続した。

歴代当主
多々良氏
多々良正恒
多々良藤根
多々良宗範
多々良茂村
多々良保盛
多々良弘真
多々良貞長
多々良貞成

大内氏
大内盛房
大内弘盛
大内満盛
大内弘成
大内弘貞
大内弘家
大内重弘
大内弘幸
大内長弘
大内弘世
鷲頭弘直
大内義弘
大内弘茂
大内盛見
大内持世
大内持盛
大内教弘
大内政弘
大内教幸
大内義興
大内隆弘
大内義隆
大内晴持
大内義尊
大内義長(大友晴英)
大内輝弘

系図
凡例 太線は実子、細線は養子。   *は同一人物


                  大内盛房  
                   ┃
                   弘盛
                   ┃
                   満盛
                   ┃
                   弘貞
                   ┃
                   弘家          
                   ┣━━━┓
                   重弘  長弘       
                   ┣━━━┓  
                   弘幸  間田氏
                   ┃
                   弘世
           ┏━━━━━━━╋━━━┓
           盛見      義弘  弘茂
           ┣━━━┓   ┣━━━┓ 
           教弘  教幸   持世  持盛
           ┃         (山口氏)
           政弘
           ┣━━━┓
           義興  隆弘
   ┏━━━━━━━┫   ┃
一条房冬側室    義隆  輝弘
   ┃   ┌──────╋━━━┳━━━┳━━━┓
  *晴持 *晴持  義尊  弘盛  義教   義長
  
大内氏家臣団(戦国期)
周防長門
右田氏・陶氏

陶弘房
陶弘護
陶武護
陶興房
右田弘詮(陶弘詮)
陶晴賢(陶隆房)
陶長房
内藤氏

内藤弘矩
内藤興盛
内藤隆時
内藤隆春
内藤隆世
杉氏

杉興連
杉重矩
杉重輔
杉隆相

弘中氏

弘中武長
弘中興兼
弘中隆兼
弘中隆助
江良氏

江良房栄
飯田氏

飯田興秀
飯田長秀
末武氏

石見
吉見氏

吉見信頼
吉見頼興
吉見正頼
吉見広頼
益田氏

益田兼堯
益田藤兼

問田氏

問田弘胤
問田興之
問田隆盛

その他
義隆時代

冷泉隆豊
相良武任
天野隆良
平賀隆保
大庭賢兼

関連項目
牛久藩
大友氏
山口市
百済・聖明王

2009年01月20日

第1ヴァイオリンからコントラバス

第1ヴァイオリンからコントラバスまでの弦五部は、各部の人数が演奏者に任されているが、管楽器は原則として楽譜に書かれた各パートを1人ずつが受け持つ。ただし実際の演奏会では、倍管といって管楽器を2倍にしたり、「アシスタント」と呼ばれる補助の奏者がつくこともある。

典型的な編成の例
木管楽器
フルート 2
オーボエ 2
クラリネット 2
ファゴット 2
金管楽器
ホルン 2もしくは4
トランペット 2
打楽器
ティンパニ
弦楽器
第1ヴァイオリン
第2ヴァイオリン
ヴィオラ
チェロ
コントラバス

バロック音楽
後期バロック音楽、J.S.バッハの盛期(ライプツィヒ時代)頃の曲に多く見られる編成を例として挙げる。

木管楽器
オーボエ 2 ほとんど欠かさず(時により、オーボエ・ダモーレ)
フルート 2 しばしば
オーボエ・ダ・カッチャ(コーラングレの先祖) 時による
リコーダー 2 時による
ファゴット1 時により旋律楽器として。その場合もふつう通奏低音を兼ねる。
金管楽器
ホルン 2 時による
トランペット 3 祝祭的な曲において
打楽器
ティンパニ 2(1対) 通常、トランペットとセットで
弦楽器
第1ヴァイオリン
第2ヴァイオリン
ヴィオラ
通奏低音
チェロ
ファゴット しばしばチェロの補強として
コントラバス チェロの8度下
チェンバロ 低音部の旋律と、それに付随する和音を即興で奏でる
オルガン 机程度の小型のもの。通常、宗教曲において
金管楽器は必須要素ではなく、もっぱら長調の祝祭的な曲に使われ、曲中でも装飾的に登場することが多い。弦楽器群と木管楽器が核となる。通奏低音用に鍵盤楽器が通例として用いられることが特徴的である。

編成の規模
楽譜に示されたオーケストラの編成の規模を示すのに、二管編成、三管編成、四管編成という言葉が使われる。いずれも木管楽器の各セクションのそれぞれの人数によっておおよその規模を示す。

二管編成は、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットが各2名(ピッコロが加わるなどの多少の増減はあり得る)で、ホルンやトランペットも2名程度、ティンパニ、弦楽五部(第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス)である。この編成に見合う弦楽五部の人数は現代のコンサートにおける標準的な編成で「10型」で5-4-3-2-2プルト(Pult:譜面台のことで、2人で1つの譜面台を見ることから、1プルトは2名に相当する)程度であり、オーケストラ総勢で50名ほどになる。モーツァルトやベートーヴェンの初期の作品は、現在このくらいの規模で演奏される。

三管編成は、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットが各2名にそれぞれの派生楽器であるピッコロ、イングリッシュホルン、バスクラリネット、コントラファゴットが加わって、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットの各セクションが3名となる。ホルンは4名程度、トランペットとトロンボーンが3名、チューバが加わる。ティンパニの他に若干の打楽器が加わる。この編成に見合う弦楽五部の人数はいわゆる「14型」7-6-5-4-3プルト程度であり、総勢75名ほどである。ベートーヴェンの後期の作品からロマン派の多くの作品はこの程度の規模であり、第九は非常に近い形としての基礎を確立したが、ワーグナーの「ローエングリン」はその最初の完全な形といわれている。

四管編成では、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットの各セクションが4名となる。ホルンも4から8人、トランペットとトロンボーンが3〜4人、チューバが1〜2人。打楽器もティンパニ1〜2人を含む5名程度。弦楽五部もいわゆる「16型」の8-7-6-5-4プルト程度となる。総勢100名にものぼる。ワーグナー、マーラー、ストラヴィンスキー、ベルクの作品には、この規模の作品が多い。その最初の形はベルリオーズのレクイエム作品5や同じくテ・デウムであるが、当時はいわゆる倍管機能のユニゾンで、後年ワーグナーがその「ニーベルングの指環」や「パルジファル」でその編成を機能的にほぼ組織化した。

四管編成よりさらに大きく、各セクションが5人平均となるもの(五管編成相当)もある。ここでは、各セクション4本ずつのスタンダードの木管楽器の上に、ピッコロ、イングリッシュホルン、バスクラリネット、コントラファゴットが加わった形が多い。ホルンは8人以上。トランペットは5から6人。トロンボーンは差が大きく3人から5人。チューバは2人以上が多い。打楽器は7人以上。弦楽合奏は「20型」の10-9-7-6-5プルトが一般的でさらにオルガン・ピアノ。チェレスタ・4人以上のハープ・ギターやマンドリンが付くこともある。リヒャルト・シュトラウス、マーラー、ストラヴィンスキーの他に、シェーンベルク、ヴァレーズ、ケージ等がいる。管弦楽は120名を超える。
リティ ハーフタイ ラサSEO ナビみさわ プローブ いきな オストミー ゼロワン フェイ ユータ メイス ドッグレ オール のんき フィジー ソニア ジューサ トハギ コート ナーグプ ちょくん ロイヤ フラック カスタマー ポンチ 影ふみ ニップル ハンブル 時代屋 ドッキン オンフ タウン むほん ブロード ジルサン パレタイ セリュ すぺあ トレッド ディベー ディーズ フラワー レジャ フォーマ シランレン メゾン お手玉 デモクラシ 竹てっぽ ダボス

なお、これよりもさらに大きな編成で書かれた巨大編成の作品もある。リヒャルト・シュトラウスの「タイユフェ」作品52、ヴァレーズの「アメリカ」(1922年版)、メシアンの「アッシジの聖フランシスコ」や「閃光」、ハヴァーガル・ブライアンの交響曲がそれにあたる。百数十名から200名近い「六管編成」ないし「八管編成」にあたるが、特にブライアンの交響曲第1番「ゴシック」はシェーンベルクの「グレの歌」を凌いで、音楽史上最大の大編成とされている。なおこのような木管楽器の編成は、各セクションが同程度の人数というような形式にあまり当てはまらず、フルートとクラリネットが多くなる割りには、オーボエとファゴットはあまり多くならない傾向があり、金管楽器も相当変則的になる。

最も小さな編成に、木管楽器が1人ずつ程度の編成(一管編成相当)がある。ワーグナーの「ジークフリート牧歌」は、基本的に木管各1名、ホルン2、トランペット1、打楽器は無しで、弦もワーグナー自宅での初演時は1人ずつであった。現在では室内オーケストラの編成8型ないし6型で演奏されることが多い。ウェーベルンの「5つの小品」作品10のように多くの打楽器や鍵盤楽器が入っていたり、同じく作品21や29、シェーンベルクの室内交響曲第1番のような変則的なものも多い。ドイツの現代の子供向けムジークテアターの新作はよくこの編成で書かれ初演される。なお弦楽はコストの節約などのためにワーグナーやウェーベルン、シェーンベルクのように各1人ずつで書かれる場合が多い。その極端な例がストラヴィンスキーの「兵士の物語」である。

バロック期のオーケストラでは、管楽器は各パート1名、ヴァイオリンは2パート2〜3名ずつ、ヴィオラ、チェロ2名、コントラバス、ファゴット、鍵盤楽器各1名という程度の規模が多く、大規模でも総勢20名程度のものであった。弦楽を含めた全てのパートを各1名で奏することもある。そのため、バロック期のオーケストラは室内楽あるいは室内管弦楽の範疇とされることもある。なお、ヘンデルの晩年1749年に作曲された管弦楽組曲「王宮の花火の音楽」では、大国イギリスの国家行事という特殊事情もあり、現在考えても膨大な100人という規模の楽団によって、式典の屋外会場で盛大に演奏されたという(参照:巨大編成の作品#番付外)。