大日本帝国陸軍では、陸軍将校の階級となるのは、「大将?中将?少将?大佐?中佐?少佐?大尉?中尉?少尉」である(陸軍軍人に準じる扱いを受けた朝鮮軍人の将校は、日韓併合の1910年から1920年まで旧韓国軍時代のままの階級を用いた。)。
当初は、兵科分類は階級名称においても反映され、佐尉官では「陸軍○○大尉」(歩兵・騎兵・砲兵・工兵・憲兵など)と区別された。後に将校相当官が各部将校に改められるに伴い、衛生部・経理部といった各部等でも同様の階級名が用いられるようになる。更に昭和15年には兵科が廃止され、憲兵科と各部将校を除きいずれの兵科も階級の前に称していた兵科名を廃し単に「陸軍大佐」のように称した。
将校になるには中学校や陸軍幼年学校を卒業して陸軍士官学校で学ぶのが一般的であった。士官学校卒業後、4ヶ月間の見習士官を経て少尉に任官した。ただし、後に士官学校本科が陸軍士官学校と航空士官学校に分かれると、航空士官学校は6ヶ月間教育期間が長かったため、見習士官はなかった。他に兵や下士官から選抜された少尉候補者や甲種幹部候補生として予備士官学校を卒業して将校になる者もいた。太平洋戦争末期の歩兵部隊における幹部候補生出身の将校の比重は、師団の急増とともに高まっていった。
帝国海軍の士官
基本的な階級
大日本帝国海軍では、「士官」とは戦闘要員を主体とする兵科士官(「将校」)と戦闘要員を支援する技術士官(「将校相当官」)に大別される。兵科士官は海軍兵学校、海軍機関学校で3年間教育を受けたあと、練習艦隊の訓練を経て、各種術科学校(砲術、水雷、通信、航海、潜水、飛行)で特性に応じた教育を受け、正式な兵科士官となる。技術科士官は造船科、造機科(艦船のエンジン)、造兵科(兵器)、水路科の4科の士官を総括していう。大学令による大学(主として東京帝国大学)の工学部、理学部在学中の学生から試験で採用、海軍学生または海軍委託学生として毎月一定の手当てを支給。卒業と同時に造船中尉、造兵中尉に任官する。1942年(昭和17年)11月、前述の4科は技術科に一本化、官職名は海軍技術中尉になった。この他、主計科・軍医科・薬剤科・歯科医科・法務科・看護科・軍楽科も「将校」でなく「将校相当官」である(時期により異なる)。兵科士官のみが「将校」とし、その他の科に属する士官は「将校相当官」とし、指揮権はなく、昇進も中将どまりである。なお、明治37年以降は、海軍予備員たる予備士官も置かれた。これらは海軍の兵科・機関科の関係の変遷や階級呼称の変遷に伴い、それに準じて制度が改正された。
海軍士官の階級?兵科将校(兵科将校という表現は厳密には1920年-1942年のみ用いられている。)の場合? 大将?中将?少将?大佐?中佐?少佐?大尉?中尉?少尉?少尉候補生
旧海軍においては旧陸軍と異なり、大佐を“だいさ”、大尉を“だいい”と呼んでいた。ただし、大将は陸軍と同じ“たいしょう”と呼んでいた。大将のみ“たいしょう”と呼称する理由は、司令官たる大佐(少将ポストにいる大佐)については少将旗ではなく代将旗(だいしょうき)を掲揚するので、これと大将とを混同しないようにするためである。
なお、近代海軍の基本となったイギリス海軍には少佐・少尉の階級が無く、大佐(Captain)・中佐(Commander)・大尉(Lieutenant)・中尉(Sublieutenant)の4階級制度が基本となっており、階級章の袖章の線も大佐が4条線となり以下1条ずつ減ぜられることとなっていた(その後少佐(Lieutenant Commander)の階級は作られたが、少尉に当たる階級は現在に至るも存在しない)。それに倣い、日本海軍でも、1886年(明治19年)年7月12日には海軍中佐(奏任官2等)・海軍中尉(奏任官5等)が、それぞれ海軍大佐(奏任官1等及び2等)・海軍大尉(奏任官4等及び5等)に統合された(用語の問題で少佐、少尉でなく中佐、中尉が省略された)が、1897年(明治30年)年9月16日に再び分離して置かれた。
機関科
明治初期は、直接戦闘に従事する高等武官(海軍兵学校出身者が中心)のみを将校として、それ以外(機関官を含む)は乗組文官であった。1872年(明治5年)に機関官などが武官に転換して士官となる。明治39年1月26日勅令第9号により、機関官の階級呼称を兵科のそれにならう(機関総監・機関大監・機関中監・機関少監・大機関士・中機関士・少機関士を、機関中将・機関少将・機関大佐・機関中佐・機関少佐・機関大尉・機関中尉・機関少尉と改める。)。
1915年(大正4年)大正4年12月2日勅令第216号により、機関官が機関将校(将校とは異なる区分)と改められる(この時点では将校・機関将校の2種が置かれる)。1920年(大正9年)に大正8年9月22日勅令第427号により「機関将校」及び「予備機関将校」が、「将校」に統合されて、「将校」(機関科)及び「予備将校」(機関科)となる(機関科将校)。1924年(大正13年)に少将以上の兵科・機関科の区別を廃止する。1942年(昭和17年)に将校の兵科・機関科の区別を廃止する。
長らく、戦闘に直接従事する高等武官と、機関科に属する士官とを区別していたのは、有事の際に軍令承行令に基き、指揮権継承の優先権を、戦闘指揮の教育を受けている海軍兵学校出身者に与えるためであった。
特務士官
制度の変遷
明治30年9月16日勅令第310号の海軍武官官階表では、特務士官の分類はなく、士官(後世の尉官の意味。)として、下士出身者が任じられる少尉相当の海軍兵曹長・海軍軍楽長・海軍船匠長・海軍機関兵曹長・海軍看護長・海軍筆記長が置かれている。
大正4年12月2日勅令第216号別表の海軍武官官階表では、特務士官として海軍兵曹長・海軍機関兵曹長・海軍軍楽長・海軍船匠長・海軍看護長・海軍筆記長が置かれる(階級の種類としては明治30年9月16日勅令第310号と同じであるが海軍機関兵曹長の並びの順位が上昇している)。
大正9年1月15日勅令第10号により、海軍兵曹長・海軍機関兵曹長・海軍軍楽長・海軍船匠長・海軍看護長・海軍筆記長・海軍予備兵曹長・海軍予備機関兵曹長が、海軍特務少尉・海軍機関特務少尉・海軍軍楽特務少尉・海軍船匠特務少尉・海軍看護特務少尉・海軍主計特務少尉・海軍予備特務少尉・海軍予備機関特務少尉と改称される。
昭和17年に特務士官の階級名から「特務」との呼称が削除されるが、海軍廃止まで特務士官制度は存続し、必要に応じて「特務士官たる?尉」と区別されていた。
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特選制度
兵曹長新設後、特選により士官たる中尉・機関中尉に進級できる道が開かれた。明治33年に初めての中尉が誕生している。しかし名誉進級か戦死に伴った昇進であり、中尉として勤務できたものはいなかった。大正9年の大改正までに昇進できたものも約100名程度にとどまっている。大改正以後は特務中尉・大尉の階級が新設されたため、特務士官として上位に進級できるようになったため、大正年間には特選任用されたものはでていない。昭和2年になり主計特務大尉から士官たる主計少佐に昇進したものが現れた。当初は、予備役編入寸前に特進する名誉少佐であったが、昭和12年に至り、現役中に昇進する者がでてきた。海軍消滅までに、戦死者を含め各科約1800名が少佐に昇進している。また、昭和19年に、兵科2名、機関科1名の現役中佐への昇進者がでた。
昭和19年飛行予科練習生出身者(操縦練習生・偵察練習生出身者を含む)に限り特務士官たる大尉から士官たる大尉への任用制度を創設。その後、昭和20年特務士官たる中尉、少尉から士官たる中尉、少尉に任用できるよう制度が拡充された。しかし適応をうけられたのは大尉への任用のみで10名に満たない。